ワンワンラプソディー





正面から吹き付ける冷たい風に、首を竦めブルッと身体を振るわせた。

落とした視線の先で、着ているロングコートの裾までもが寒そうにヒラリと揺れる。

開けっ放しのコートの前を掻き合せながら、撩は詰めていた息を吐き出した。



日々猥雑な歌舞伎町は12月という時期もあり、いつも以上に人が溢れ、歩き難い事この上ない。

出来ることならもう少し早く歩きたいところなのだが、酔っ払いを蹴散らかすわけにもいかず、

仕方なく夜の歌舞伎町をノロノロと歩いている。

向かいからやってきた、若いサラリーマン3人組の、大声で交わされる会話が嫌でも聞こえきた。



― ただでさえも年末で忙しいのに、イロイロ予定が多すぎるってのなー

― っとによ。俺、忘年会の予定があと4回もあるんだぜ?

― 接待がらみの忘年会なんざクソだな

― あークリスマスもあるしなぁ

― そーそークリスマス!金かかるよなぁー

― ギャー!言うなっ言うなっ!俺、アイツにとんでもないモノ強請られてんだぜっ!

― マジで?なになに?



渋い顔をした真ん中の男がモソモソと何か言うと、両サイドに居る二人が、ギャハハッと大袈裟に仰け反る。

バンバンと慰められるように背中を叩かれている男の後姿を見送って、撩は溜息をついた。




「クリスマス・・・か・・・」






12月に入った途端、あっちもこっちもクリスマスムード一色だ。



綺麗に飾られたツリー、花屋に並んだ真っ赤なポインセチア。

街路樹にはイルミネーションが輝き、一歩店に入れば陽気なクリスマスソングが流れ、

有名ケーキ店もカーネルおじさんもそれぞれ予約で大忙し。

アクセサリーショップやブランド店では、プレゼントの下見をしてる若者が

楽しげに電飾に輝くショーウィンドウを覗き込む。



クリスマスは恋人たちには年に一度のビックイベントだ。

特に女はそういうイベントが好きなヤツが多い。

そう、多いのだ。



「とは言ってもなぁ・・・」



撩がボソリと呟いたとき、「なに浮かない顔してんの?リョーちゃん」と言う声と共に、

グイッと左腕が引っ張られた。

ボーッとしてた身体が揺れ、傾いた視界の中に真っ赤な服を着た女が入る。

客を見送りにでも出た所だったのだろう。顔見知りのホステス、ミドリだった。



「よぉ・・・なんだその格好」

「なにってサンタでしょ!セクシーサンタ!」



どお?とポーズを取るミドリを下から上まで眺める。

真っ赤なロングブーツに、裾に白いボアが付いたミニスカート、

胸が半分出ているような真っ赤なチューブトップ。



「・・・コスプレの日なのか?」

「違うけどさ、季節に合わせたっていうかぁ、情緒っていうの?日本人だしぃ?」



外国の行事であるクリスマスに、情緒も日本人も無いと思うのだが、面倒なので黙っておく。



「ね、そそられる?」

「・・・寒そうだな」

「きゃー!ナニソレ!もっと他に言うことないのー!」



ヒドーイ!と笑いながら、ミドリは掴んでいた撩の左腕を胸に抱き込み、ギューギュー押し付けた。

綺麗にカールされた睫毛が撩を見上げる。



「リョーちゃん、お店、寄っていってくれるでしょ?」



甘い香水の匂いと、左腕に当たる柔らかい感触に危うく頷きそうになって、撩は慌てて首を振った。



「いや・・・今日は・・・」

「えー!なんでー?」

「バカ、俺だって忙しいんだよ」

「あ、わかった。ドロシーの蘭子ママのトコに行くんでしょ?」

「行・・・かない」

「うそだぁ!いま変な間があったもん!」

「あーもーうるさいって。また今度な」



縋り付く自称セクシーサンタを振り払うと、撩は人込みの間を足早に歩きながら苦笑する。





「行かない、じゃなくて、行けない、んだけどな」





再び強く吹いてきた風にコートが揺れる。

ポケットに手を突っ込んで前を合わせると、チャリン、と小さな音が鳴った。



「1862円じゃなぁ・・・」



何度手を突っ込んでも増えている訳も無く・・・。

撩はポケットの全財産を無意味に弄んだ。





                    ******





「金は天下の回りモノっていうけど・・・ウチにはいつ回ってくるの?」

「香、そういうことは俺に聞くな。天に聞け」



聞けるもんなら聞いてる、と言って、家計簿をパタンと閉じた香は、

ダイニングテーブルの上に左肘を付いて、その上に顎を乗せた。

右手で電卓を無意味に叩きながら、唇を尖らす。

昼、というか、撩の生活時間で言えば朝食の後の、いつものお馴染みのやり取りだ。



二人の仕事はスイーパーと言う特種なもので、確かに仕事量は多くは無いけれども、

それでもこの世の中、大なり小なりのトラブルは多々あるのだ。

それに、たまには警察にいる知り合いから仕事を依頼されることだってあるし、

隣のビルに事務所を構える女探偵から、手を貸して欲しい、と言われることもある。

香にとっては不本意な事だけれど、実際生活のことを考えれば選り好み出来る状態でなく、

渋々引き受けたりもする。そうやって毎月なんとかギリギリだとは言え、乗り越えて来ているのだけが、

先月末から本当に全く何にもどこからも仕事が入らず、もともと雀の涙のような貯金は底を付きようとしていた。



「宝くじ・・当たらないかなぁ」

「買ってもいないのに当たる訳無いだろが」



ズルリとテーブルに突っ伏した香が力なく呟く。



「ああ・・・3億円のスタートラインにも立てない・・・」

「一枚だけ買ってみれば?」

「一枚だけなんて・・・当たるなんて思えない」

「信じるものは救われるって言うぞ?」

「宝くじ一枚に300円使うくらいなら食パンと牛乳買うほうがよっぽどマシ。

夢なんか買ってもお腹は膨れない・・・」



現実的な上にマイナス思考な発言に、撩は笑いながらテーブルの上の小さな頭を見た。

この時期に金が無いというのは、いつも以上に精神的に堪えるらしい。

撩が女の依頼しか受けたがらないことや、ツケで飲んで来ることを怒る元気も無いようだ。

それこそ一歩街に出れば、周りはクリスマスだ忘年会だ正月だと忙しそうに、

だけどどこか楽しそうにしている人々が溢れているのだから余計だろう。

仕方ないな、と撩は胸の中で呟いて口を開いた。



『初日の出 拝むことなく 飢え死にか?』 一句出来たぞ」



香が跳ね起き、ヘラヘラと笑った撩をキッと睨む。



「なにが、一句出来た、よっ!どーしてアンタは人の神経を逆撫でするようなこと言うのっ!」

「なかなかイイ出来かと思ったんだけどな」

「不吉な句を読まないでっ!」

「だってよ〜」

「だってじゃないっ!」

「けど近いもんがあるだろ」

「近くないっ!」

「遠くも無いだろ」



うっ!と詰まった香が、ドンとテーブルを叩く。



「飢え死になんて!この飽食の日本でなってたまるかっ!」

「そりゃ俺だって飢え死にはしたくねぇよ」

「仕事・・・とにかく仕事があればいいのよっ!」



当たり前のことを真面目な顔で宣言すると、香は勢い良く立ち上がった。弾みで椅子がひっくり返る。



「行くよ、撩」

「あ?どこに?」

「掲示板っ!今日はきっと依頼がある!」

「あるかねぇ・・・」



のんびりと立ち上がった撩は、香がひっくり返した椅子を元に戻しながら、気のない返事をする。



「だって、さっき撩が言ったんじゃない」

「ん?」

「信じるものは救われる」

「う・・・あ・・・まぁな・・・」



この流れで救われなかった場合、どうフォローすればいいんだか・・・。

いつになく落ち込んでる香を怒りのエネルギーで浮上させたはいいが、どうも流れがおかしくなってしまった。



意気揚々と玄関に向かう香の後で、撩はこっそり溜息をつく。

奇跡が起こることを祈りながら・・・。






                    ******





日が出てるとは言え、冷たい風が吹く公園のベンチに座っている物好きは、

軽く周りを見渡しても撩と香だけだった。

そんな中、落ち葉がカサリと音を立てて風に吹かれていくのを、

どこか半分遠くに意識を飛ばした香がぼんやりと見ている。

撩が買ってきたホットコーヒーの缶に口に付ける事も無く、両手に持ったままだ。



結果から言って・・・奇跡は起こらなかった。



撩が予想したとおり、掲示板に「XYZ」の文字は無く、相当意気込んでいた香は

ガックリと肩を落としている。



「信じるものは・・・救われなかったね」



撩は力なく薄い笑いを浮かべる香の手から、缶コーヒーを抜き取ってプルトップを開けてやる。



「ほら、冷えちまうぞ」

「・・・うん」



一口飲んで「あったかい」と呟いた香に何か言おうと思って、

だけど何を言えば良いのか思いつかず、撩は黙って自分のコーヒーに口を付ける。

なんとなく「帰ろう」とは言えず、そのままコーヒー1本と煙草1本分の沈黙が過ぎた。

マフラーもしていない香の首が寒そうで、このままじゃ風邪を引くと、撩が香を促そうと口を開いたとき、

ふいに子供の叫び声と泣き声が公園内に響いた。



「ワンっ!ワンワン!!!」

「クッキー!クッキー!!ダメー!待ちなさいーー!」

「おねーちゃー!うわーん!まってよぉー!」



先頭をベージュ色の子犬が、そのかなり後を小学生らしきの女の子が、

そしてさらにその後を、幼稚園くらいのチビが泣き叫びながら走ってくる。

時折、子犬が子供をからかう様に後ろに戻っては、1匹と2人はグルグルと周る。



「ね、撩、あの子達、犬のリードはなしちゃったんじゃない?」

「みたいだな」



子犬が横を通るたびに引き摺ってるリードを踏んで止めようとしては、ことごとく失敗して、

女の子は地団駄を踏んでいる。傍から見ていると笑える光景なのだが、子供たちは真剣だし、

幼稚園児にいたっては走り疲れて既に足元がヨレヨレ。

ついでに泣きながら走るのでは、呼吸もままならないようで、息も絶え絶えと言う感じだ。



「ありゃ、犬が子供たちを自分より下だと思ってるんだな」

「だな、じゃなくて――」



どうにかしてあげようよ、と言う香の言葉を最後まで聞かず、

撩はちょうど自分のほうに走ってくる犬の前にヒョイっと立ちはだかった。

いきなり進路を塞ぐ人間の出現に、子犬は驚いたのか、頭を低くして撩を見上げる。

見つめあうこと30秒。

子犬は撩を上だと認めたのか、急にコロンと道にひっくり返った。



「さすが撩。野生というかケダモノと言うか・・・通じるものがあったみたいね」

「うるせーな」



クククッと笑いながら犬の腹を撫でてる香を睨んだとき、やっと子供たちがやってきた。

二人とも顔を真っ赤にして、息を切らしている。頭から湯気が出そうだ。



「ありがと・・・はぁ・・ござ・・いま・・はぁ、はぁ・・・」



子犬を捕まえた撩にきちんとお礼を言いながらも、子供たちはそれ以上近寄ろうとしない。

ロングコートのポケットに手を突っ込んで、ただ黙っている大男が良い人なのか悪い人なのか、

計りかねてるという感じだ。

撩自身も第一印象で子供に好かれると思ってないのか、どこか困ったように香に視線を送る。



「ほら、撩。ありがと、だって」

「あ、ああ・・・いや・・・」

「はい、リード。それにしても大変だったねー」



香がリードを渡しながらニッコリ笑うと、子供たちはいくらか安心したのか小さく頷き、

お姉ちゃんの方がリードを受け取りしっかりと握った。



「うん。あのね、いつもは陸が一緒なんだけど、帰ってくるの遅くてね、ママもパパも仕事だから、

クッキーの散歩はあたしたちの仕事なの。でも、クッキーは早く散歩に行きたいっていっぱい鳴くし、

それで本当はダメなんだけど、空と二人で来たらね、クッキーが急に走るから・・・」

「そう、それで離しちゃったんだ」



子供特有のたどたどしい話し方にも、香はうんうんと頷きながら聞いている。



「陸ってお兄ちゃん?」

「うん。お兄ちゃんが陸(リク)で、あたしが海(ウミ)で、妹が空(ソラ)っていうの」



姉の手にぶら下がっている妹が恥ずかしそうに、後ろに隠れる。



「あはは、陸海空だ」

「うん。まとめて呼ぶとき、ママがそう言うよ」



すっかり仲良くなった香と子供たちの周りを、クッキーが楽しそうに跳ね回る。

どうやら香を友達だと判断したのか、しゃがみこんでいる香の背中に飛び乗ろうとしたりで大忙しだ。



「さすが香。犬に子供とレベルが同じだと思われてんのな」



さっき言われた仕返しとばかりに撩が笑う。



「悪かったわね」

「悪いとは言ってないだろ」

「でも馬鹿にした」

「いやいや、ガキと動物に好かれる才能っつーの?俺には無いし?」

「やっぱり馬鹿にしてる」



膨れる香の顔を、クッキーが嬉しそうに舐めた。





                    ******





「良かったね、お兄ちゃんが迎えに来てくれて」

「んー」



このままヤンチャな犬を連れて帰らせては、また同じことが起きそうだと思っていた矢先、

二人だけで犬の散歩に出た姉妹を兄が探しに来たのだ。

妹たちを見つけた途端、「海っ!空っ!」と叫び、そのまま怒鳴りたいのをグッと我慢していた。

余程心配したのだろう。



「あんな小さい子でもお兄ちゃんはお兄ちゃんなんだね。怒ってたけど凄い心配してたものね」

「つーか、男だよな。ゲンコツのひとつも落としたかっただろうに・・・。

やっぱ女の子に手を上げちゃいけないとか思ってんだろうなぁ」



兄のギュッと握られていた小さな拳を思い出し、撩が笑う。



「俺、ちょっとあのニーチャンに睨まれたぜ。変質者だとでも思われたのか?」

「あははっ!」

「せっかく犬捕まえてやったのによ」

「仕方ないじゃない」

「仕方ないってナニガよ?ったく・・・」



コレだからガキは、とぼやく撩の左腕に香がそっと腕を絡めた。

珍しい行動に撩は一瞬驚いて、でもそれを顔に出さないまま、左腕の重みを黙って受け止める。

普段は人目を気にする照れ屋の香が、自らこんな行動に出るのは、

日が落ちるのが早くなる冬の所為なのだろう。

そう思えば寒い冬も悪くない、と思えるから我ながら現金なものだと思う。



「可愛いかったね、犬も子供も」

「んー」

「あたし、小さいときね、クリスマスに、犬が欲しいって言った事があるの。

だいぶ粘ったんだけど、ダメだって言われてさ。まぁ、アパート住まいだったし、

あたしもまだちゃんと犬の世話なんか出来る様な歳じゃなかったしね。

だから友達の家の犬を見るたびに、いつか大人になったら絶対飼うんだ!って。

夢ってほどじゃないけど・・・そう思ってたな」

「ふぅん」



外灯の明かりが灯る中、どこかの家から夕食の匂いがしてきた。

帰り道の中年サラリーマンが足早に二人を抜き去っていくのを見て、香が笑う。



「この匂いに急かされちゃうの、わかるよね」

「んー俺も腹減ったんだけど」

「あたしも。大した動いてもいないのに、お腹はちゃんと減るんだよねぇ・・・」

「そりゃー生きてるからな」



当たり前だ、と茶化す撩に、香は真面目な声で、そうだね、と言う。



「今日もちゃんと生きてる」



香は存在を確かめるように、ぎゅうっと腕に力を入れて、撩の腕を抱きこむ。

兄を失ったあの日から、失うと言うことへの潜在的な恐怖を慢性的に抱えているのだろう。

意味の無いような言葉の裏にある意味を感じた撩は、開いてる右手で香の頭を撫でた。



まともとは言えない仕事をしている以上、自分はいつどこで死んでもおかしくない。

畳の上で死にたいなどと思うことはおこがましいと思っている。それだけのことをしてきたのだから当然だ。



ゆえに何年も何度も迷った。香を巻き込んでいいのか?と・・・。



ずっと、理屈ばかりでちっとも心のままに動けない自分。

香に優しい嘘も言ってやれず、香が自ら離れていくばかりの道を冷たく示して、

自分自身は何の思い切りもしなかった日々。



それでも。何度泣いても。何度突き放しても。全てを知っても。香は撩と生きることを望んだ。

こうやって、撩と言う命が今日もあることを喜び、素足で歩けば血が流れることをわかっていながら、

共にその上を歩こうとする愚かさは、不憫で可哀想だと思うのに・・・途轍もなく愛しい。





「なぁ香?」

「ん?」

「本当はさ、子供のときのように、飼いたいと思ってんのか、犬、とかさ・・・」



撩の質問に香は笑って首を振る。



「そりゃ、撩がツケで飲みに行ってぜーんぜん帰ってこない時とか、犬がいれば寂しくないし?」

「何気に嫌味言いやがったな」

「あはは!まぁ、でも、仕事のこととか考えたら、逆に犬が可哀想だし、

自分たちの食い扶持だって怪しいんじゃねぇ。それに・・・」

「それに?」

「撩だけでも手が掛かるのに、犬の世話まで出来ないって」

「俺は犬と同等かよ」

「似たようなもんだよ。あ、撩は大型犬だね、はははっ!」

「あのなぁ」

「しかも全く言うこと聞かないダメ犬」

「そこまで言うか」

「だけど実は凄く優しいの」

「・・・・今更褒めても無駄」

「んふふ。さ、早く帰って餌にしよ。ビンボーだから質素な餌だけどねー」



ケラケラと笑った香が撩の腕を引っ張った。

まるで大型犬を引っ張るかのように・・・・・。





                    ******





翌日もその翌日もまたその翌日も・・・。

待ち望んでいる仕事は無く、冴羽家の台所事情は背水の陣となりつつあった。

仲のいい喫茶店経営夫婦が、

「発注を失敗して多く入っちゃったの。このままじゃ賞味期限が切れそうだから貰ってくれない?」

という理由で分けてくれた、パンや卵、ハム、チーズなどがあったお陰で、

飢え死にしないで済んでいるようなものだ。



「それにしても・・・美樹さんみたいなしっかり者でも失敗することあるんだなー」



香は、貰ったハムとチーズを乗せて、ケチャップをかけて焼いたパンを齧りながらつぶやく。

本当は、毎日のように店に顔を出していた香がココ最近来ないのを気にした美樹が、

「金が無いからだ」という理由を知り、香が気にしないで受け取れるようにでっち上げた理由なのだが、

素直にそれを信じる辺りが香らしい。



「あーあ、クリスマスなのにさー」



最後の一欠けらをパクンと口に放り込んで、コーヒーを啜りつつ

――このコーヒーも美樹に分けてもらったものだ―― 香はテレビを見た。

クリスマスだからか、芸能人が青山にあるお洒落なレストランの特別ディナーを前に、シャンパンを飲んでいる。

ナントカという牛の中の、特別な場所、その中でも少ししかない部分を、あーでもないこーでもないと、

説明するナレーションが腹立たしい。こっちはその特別な場所じゃない普通の場所や、

普通以下の場所だって、口にすることが出来ないというのに。

画面は変わって、ライトアップされた綺麗な教会が映る。人気のデートスポットらしい。

クリスマスを甘く過ごすカップルには最高の起爆剤になりそうだ。



「なーにが100%素敵な夜を過ごせること間違いなし、よねー。

ああ、神様でもサンタさんでもいい!プレゼントにはお仕事をくださいっ!!」



どうせ望むなら、その結果にある「お金」と言えばいいのに、そう言わないところがまたまた香らしい。



「そして撩には天罰を!天罰を与えてくださいっ!絶対に!!」



天罰をプレゼントにされた撩は、ここ最近遊びに出てなかったというのに、

とうとう我慢の限界が来たのか、昨日から帰ってきていない。

だらしなくソファに伸びた香は、クッションに顔を埋め、うーうー唸る。



「ああ、マズイ。色々頭に浮かんできた・・・クリスマスケーキとか・・・鳥足とか・・・

鮭とアスパラのパイ包みもいいなぁ・・・コーンスープもいいけど、

具沢山のクラムチャウダーも捨てがたい・・・あとあと・・・・」



気分はすっかりマッチ売りの少女となり、次から次へと色々な食べ物を思い浮かべる。

アレもコレもと、すっかりうっとりしていると、ふいにパコンと後頭部を叩かれた。



「いっ!なにすんのよ、撩」



やっと帰ってきた撩が、呆れた顔で香を見下ろしている。



「おま、こぇぇよ。さっきから黙ってみてれば、

ステーキだとかデミグラスソースがどうだとか苺タルトだとか、ブツブツブツブツ・・・」

「想像の中で食べてただけだもん」

「うわ、なお怖い」

「うるさいなぁ」

「しかもヨダレ・・・」



え?と、自分の口元を擦りながら、香は慌てて視線を落とす。

だが、クッションににそれらしき染みは無い。



「出てないじゃない!」

「いや、出てそうだなって思ってさ」



ニヤニヤと笑う撩に、香はクッションを投げつけた。

至近距離から投げたのに、あっさりと受け取られ、香は面白くなさそうに口をへの字に結ぶ。



「怒るなって」

「・・・昨日から一体どこ行ってたのよ」

「あーそれはナイショ」

「は、どーせ遊んでたんでしょ?まったくいい身分よねー。こっちは仕事も無いし、お金も無いし、

クリスマスなのに美味しいもの想像するだけで――」

「はいはい、ストップストップ!」



撩はクッションを香の頭の上に乗せると、その上を宥めるようにポンポンと叩く。



「人間腹が減ると怒りっぽくなってダメだな」

「誰が怒らせてるんだか」

「あ?そんなこといっていいのか?」



胡散臭そうな顔をしている香の横に、妙に格好つけたポーズで撩が座り、ついでにこれ見よがしな溜息を付く。



「あーあ、せっかくいい話なのにな」

「え?まさか仕事?」

「でもなー。酷いこと言われたしなー。撩ちゃんショックだよなー」

「ご、ごめん・・・だって・・・まさか・・・仕事探してるなんて・・・」



香が申し訳なさそうに小さくなる。

その肩にスルリと腕を回し、撩はふふんと鼻で笑った。



「つーことで、お詫びとご褒美に、キス一回な」

「え・・・」

「ほら早く」

「ええっ?あ、あたしから?」

「そういうもんじゃないの?お詫びとご褒美なんだからさ。あ、当然だけど、口ね、口。マウスTOマウス」



何度も言うな、と顔を赤くした香が、コミカルにすら見えるほど、

眉をはの字に下げて、撩の喉元あたりを見たまま固まる。

笑い出したいのを堪えて、撩は促すように、チュっと音を立てて香のおでこに唇を落とした。

それをきっかけに香がおずおずと唇を寄せる。

触れるだけの軽いキス。



「これって、子供のキスじゃん」

「そ、そんなのに大人も子供も無い」

「ま、今回はコレでもいいけどさ」

「次回なんかないわよ」

「大人のキス、知ってるくせに」

「知らないっ」

「あ、忘れた?何度も教えてるのに」

「知らないもんは知らないのっ!」



へぇ、とわざとらしい相槌を打たれ、香はいっそう顔に血を昇らせた。





                    ******





「ねぇ、仕事の内容は?」

「行けばわかるって」



高速に乗ったミニクーパーの助手席で、香が3度目の同じ質問をし、

これまた3度目の同じ答えを撩が答える。

特殊な武器も用意しなかったのだから、危険な仕事ではないようだけれど、

何も知らずにいるのは心もとない。



「どこに向かってるの?」

「ん?とある人の別荘」

「別荘・・・」

「次のサービスエリアで、タイヤにチェーン巻かないとな。雪が凄いから」



香はぐんぐん流れる窓の外のを眺めた。

お金持の人達が、別荘でクリスマスパーティーでもするのだろうか?

確かにロマンティックだろうけど、雪の中の別荘では何かと不便だろうに。

高級ホテルでのパーティーなど飽きてしまったのかもしれないなと、香は肩をすくめた。



高速を降りて、申し訳程度の市街地を通り過ぎ、ガソリンスタンドやコンビニが

ぽつらぽつらとある国道を走る。

舗装されていない山の道に入り、しばらくすると、雪に覆われた木立の中に、

目的地らしい別荘が見えてきた。

丸太を組み合わせたような、いかにもログハウスといった造りで、

テラスにはテーブルと椅子もあり、夏ならばそこで過ごすのも気持ち良さそうだ。



車を降りると、足元でキュッと雪が音を立てる。気温がかなり低い証拠だ。

近くに同じような別荘は無いのか、風が奏でる自然の音以外何も聞こえない。

すでに誰か到着しているようで、カーテンを閉めた窓から明かりは漏れているが、

外に車は一台も無いし、人がいる気配も無いようだ。



「ねぇ、撩。ここであってるの?なんか・・・静か過ぎない?」

「いーんだよ、ココで」



ほら行け、と撩に押され、香は玄関までの階段を登りチャイムを押す・・・が、誰も出てこない。

聞こえないのかと何度か押したが、やはり扉は開かず、

仕方なくドアノブに手をかけると、ドアはあっけなくカチャリと開いた。

護衛を頼んでおきながらなんて無用心な依頼人だろうと、香が眉を顰めた時、

薄く開いていたドアが内側から物凄い力で押され、真っ黒なナニカが香に飛びついた。



「ギャー!」

「ワホッ!ワホッ!!」



階段から転げ落ちそうになった香を受け止めて、撩が笑う。



「熱烈歓迎だなー」

「なにっ、なにコレっ!」

「なにって犬」

「い、犬ぅぅ?・・・く、熊かと思った・・・」



真っ黒な毛の、体重60キロはありそうな大型犬に伸し掛かられながら、香の声音が苦笑いにかすれる。



「ニューファウンドランドっていう種類なんだと。ダイナス、いい加減俺たちを中に入れろ。寒いんだって」

「ワホン!」



まるで人間の言葉がわかるかのように、ダイナス――犬の名前らしい、は

のっそりと香の上から降りると、土間の端に座った。

パタパタと太いしっぽが揺れている。

撩がズカズカと中に入ってしまうので、玄関のガキをきちんと掛けて、香も慌てて追いかけた。

その後を、ゆったりとした動きでダイナスが追う。



リビングとダイニングが併設した広々とした空間。

堅苦しくないシンプルな革張りの応接セットの向こうに、対面式のキッチンとカウンター、

さらにその向こうにダイニングテーブルが置かれている。

リビング脇にあるドアの向こうにはまだ個室があるのだろう。

かなりの広さだと、香は部屋の中を見回す。

犬のことを考えてるのか床はフローリングではなく絨毯敷きで、

リビングにあるマントルピースに囲まれた暖炉には小さく火が入れてあった。

撩は暖炉脇に積まれている木を数本その中に投げ込むと、

どっかりとソファに腰を下ろし、ポキポキと首を鳴らした。

モサモサと近寄っていったダイナスの頭を撫でるその砕けた様子に、香は首を傾げる。



「パーティーじゃないの?」



今感じる限り、この別荘の中に自分達と犬以外はいない。



「パーティー?そんなこと言ったっけ?」

「言ってないけど・・・だったらちゃんと説明して?これは仕事なんでしょ?」



詰め寄る香を、まぁまぁ、と宥めて、撩がポンポンと自分の横を叩く。

仕方なくそこへ腰を下ろした香に、撩は口を開いた。



「仕事というか・・・利害の一致というか・・・・」

「利害?なにそれ?」

「ギブ・アンド・テイクっつーのもどっか違うような気がするが・・・・」

「全然わかんない」



撩はポケットの隠しから煙草を取り出す。



「あのさ、俺ね、金が無いわけよ?528円じゃーさすがにな・・・その・・・クリスマスの・・・プレゼントとかさ」

「528円!」

「そっちに驚くな」

「ま、いいんじゃない?何も出来なくて。どうせ飲み屋の子にプレゼントなんかしたって無駄無駄」

「あァ?なんでそうなるんだよ」

「違うの?」

「・・・・まぁ、普段の俺が悪いんだろうな・・・。俺は、オマエに何もしてやれないっていってんの」

「はっ?どうしたのっ?ナニソレっ?」



そう言ったまま絶句する香に、そこまで驚くかと撩は苦い顔をしたが、なんとか自力で自分を立て直す。



「で、昨日の夜にな、たまたま知り合いに会ってさ。

あんまり・・・いや、かなり会いたくなかったヤツなんだが、色々話してるうちに・・・

まぁ色々あって、このダイナスと別荘を食材つきで、4日間貸してもらえることになったんだ。

ほらオマエ、子供の時、クリスマスに犬が欲しいって言ったことあるって、言ってただろ?

だから、別荘で犬と過ごすクリスマスも悪かねーかと思ってよ」



所詮、犬も別荘も借りもんだけどな、と付けたし、撩は手にしてた煙草に火をつけて、

どこか照れたようにスパスパと煙を上げた。引き寄せた応接テーブルの上の灰皿には、

既に二本の吸殻があり、それが撩の吸ってるものと同じだと香は気が付く。



「もしかして、撩、ココに一回来たの?」

「あ?ああ、なかなか鋭いね、香ちゃん。昼前にダイナスを連れて一回な。

食材運んだり、暖炉に火を入れたりしたかったし、玄関の階段の雪も凄いだろうって――

なっ!なに泣いてんだよ」

「だって・・・あたし・・・」



香が、うわぁん、と両手で顔を覆う。



「そ・・・そんなこと・・・えぐっ・・・考えて、してくれるなんて・・・うっ・・・思ってなくて・・・だから・・・」

「ああ、泣くなって。ま、それは仕方ないっつーかさ。俺の行いが悪いからだし」

「で、でも・・・天罰って・・・えぐっ・・・言っちゃった・・・」

「は?」

「サンタさんと神様に・・・・ううっ・・・撩のクリスマスプレゼントは天罰にしてくださいって・・・

ううっ・・・・あたし酷いこと・・・・えぐっ・・・」



ごめんねー、と言いながら、香は心配げに近寄ってきたダイナスの首にしがみつく。



「・・・何でそこでダイナスなんだよ?」



憮然とした顔の撩を見上げ、ダイナスが満面の笑みを浮かべ(たように見えた)、ワホンと鳴く。



「香ちゃん、普通は俺に抱きつくんじゃないの?」



ほら、と両腕を広げられ、香は泣き笑いしながら撩の膝の上に乗り、肩先に顔を埋めた。

膝の上のささやかな重みと、すっぽりと収まる細い体を確かめるように、撩の腕がそっと香の背に回る。



「俺への天罰を願ったお詫びは、キス一回」

「・・・ま、またそういうこと言う・・・」

「今度はちゃんと、大人のキス、な」



ぐっと詰まった香が恨めしそうに見上げてくる。



「ああ、知らないないんだっけ?忘れたんだっけ?」

「わざとらしい・・・」

「また教えてやろうか?」

「・・・スケベ親父みたいなこといわないで」

「親父ではないけど、スケベなのは間違いじゃない」

「ひ、開き直って・・・」

「仕方ないな。ちゃんと憶えろよ」

「やだっ!」



とっさに身を引こうとした腰を片腕で押さえ込み、開いた片手で後頭部を支えて、撩が香に唇を落とす。

啄ばむようなキスと、吸い取られそうなキスを交互に何度も繰り返され、くったりと香の身体が力を失った。



「憶えた?」

「・・・はぁ・・・はぁ・・・」



どこか焦点の合わない瞳を覗き込み、撩が片頬だけで笑う。



「憶えられなかっみたいだからもう一回な」

「んっ・・・んんっ・・・・」



いつの間にか体勢が入れ替わり、香の身体がソファに押し付けられた。

微かな水音と、香の吐息が静かな部屋に響く。

チュッと音を立てて離れた撩の唇を、息を乱した香が名残しそうに目で追い、

撩が再び片頬だけで笑う。



「もしかして、大人のキス以上のこと、シタくなってきた?」

「し、したくない」

「そう?俺はシタイけどな――」



身をかがめてきた撩が、香の耳元で直接的な言葉を吐く。



「――――」

「っ!セッ・・・って・・・」

「俺にもクリスマスプレゼントがあっていいだろう?」



香の額にキスをして、撩が男らしい色気のある微笑を見せる。



「あ、だって・・・でも・・・こんなことじゃなくても・・・」

「俺は何よりも香がイイ・・・ダメか?」



色気のある顔から一転して、寂しげな顔で微笑まれては、香も強くダメとは言えず、ううっと唸る。

確信犯だとわかっていて強く出れない自分が恨めしい。

慈しむような漆黒の瞳に真っ直ぐ射られ、更に鼓動が速くなって来る

息苦しさに浅く呼吸を繰り返し、わかったと、香が頷きかけた時――。



「ワホン、ワホーン!!」

「ぐへっ!」

「んぁっ!重っ!!」



突然いいイキオイで、ダイナスが撩の上に飛び乗ってきた。

まさに親亀の背中に小亀を乗せて、だ。

ただしこの場合、小亀が一番下になっていたが・・・・・。



「重いっ!重いってばっ!」

「ダイナス!降りろっ!」

「ワオーンワオーン!」



なんとかダイナスが降りて、撩もソファの下へ転がるように降りる。

さすがの撩も、あの体勢で60キロの犬に飛び乗られては、少しばかりキツイ。



「オマエな・・・」



ジロリと真っ黒な顔を睨むと、ダイナスは素知らぬふりで、香の膝に頭を乗せた。

耳の辺りを撫でてもらい、満足そうに鼻息を強くする。



「仲間外れにされたと思ったんだね。寂しかったんだよねー?」

「ワホっ!」



まるでそうだと言わんばかりに、ダイナスが返事をし、撩は内心、それは絶対に違う、と確信する。

あきらかにダイナスは、撩の行動を目的を持って阻止、したのだ。



喫茶店夫婦然り、向かいの金髪バカ然り。

街の情報屋も商店街の奴らも、夜の店の呼び込みや、オカマバーのママも、

とにかく色んな人間が、どういうわけだか香を護ろうとする傾向にあるのはわかっていた。

が、まさか今日会った犬までそうなるとは思わなかった・・・・。



「思わぬところに伏兵が・・・・。見てろよダイナス。オマエごときに負ける俺じゃねーぞ」

「ワウっ!ワワン!」

「なに犬と張り合ってるのよ?」



不機嫌丸出しの撩に、香は苦笑する。



「ね、撩?ココの別荘に来てまだ1時間しか経ってないよ?」

「・・・?それが?」

「えーと・・・クリスマスだってまだ終わってないし・・・」

「・・・・」



なるほど、と撩は頷く。

それが首筋を赤く染めた香が出来る、精一杯の誘い文句なのだろう。



「俺がプレゼントを貰うチャンスはまだあると?」

「い、いい子にしてないと貰えないんだからねっ!」

「はいはい」



低空飛行気味だった気持ちが、ふいに上昇する。

照れくさそうにキッチンに逃げ込む香の後を、鼻歌を歌いながら歩く。



普段はあまりしない食事の手伝いでもしようか?

子供のようにイイ子にしていれば、大人のプレゼントが貰えるらしい。



クククッと笑いを零す撩を、ダイナスが気持ち悪そうに遠巻きに見詰めている。



「オマエもイイ子にしてろよ?大人のプレゼントはやれないけどな」

「ウワオン?」





2006年12月。

2人と1匹ののクリスマスはまだ始まったばかりだ。







  
<ムツゴロウのあとがき>

  オフでもとても仲良くしていただいているももねこさんから頂きました。

  本当に、本当に、ありがとうございます。読み応えありますね。

  タイトルは私がつけたんですが、相変わらず扇子が、いや、センスがありません。

  このままでは絶対に終わらないわよね〜。続きが読みたいワン!!(笑)